同じ夕日を見ていた…
随分と久しぶりにブログを書くのですが、lunaさんからの調査依頼がありました。
お題は次のとおり。
「宗像市の八所宮の参道が、朝日に向かって上るようになっているそうです。5月から8月が見頃だそうで、夕日の「光の道」に対応して「朝日の道」で有名になるかもしれません。で、この時期ということは、夏至ライン上に造られた?」
調べてみました。ただ、数値地図を使用したカシミール3Dの画像は、短い距離を調べる場合は、確実な結果ではないかもしれません。実際に現地で見てみるのが一番ですので、あくまで参考ということで、御容赦いただきますよう、お願いいたします。
さて、「八所宮(はっしょぐう)」は福岡県宗像市にある神社です。lunaさんの記事に詳しいです → 八所宮(Ⅰ)
その参道は東からやや北の方向へ、森の斜面を登ります。

240m×120mの範囲です

500m×300mの範囲です
車道に面した参道入口から30m程で、階段が急になるようです。更に30m程進むとなだらかな台地状の地形になります。
もう少し進むと参道は北寄りに曲がって「八所宮」に至ります。ここが台地の一番奥になるようです。
今回は、参道入口から台地の縁までの直線部分を対象としました。
理由としましては、この直線部分をそのまま東に延ばすと、東隣の山塊である「馬頭岳」の三町境界のピークに至るからです。

「馬頭岳」は標高209mとされ、いくつものピークがあるようですが、この三町境界(遠賀町・岡垣町・鞍手町)のピークには「アリーナヶ丘」という手造りの標識があるようです。遠賀町の造った馬頭岳頂上標識は東隣のピークにあります。この山塊の最高峰はそのまた東隣のピークになって、標高は220mを超えています。どれが本当の「馬頭岳頂上」なのか…一応、三町の境界に歴史的な意味があるような気がするのですが…馬頭岳は、以前菊如さんに教えていただいた山ですね。
もう一つの理由は、西日本新聞が参道のこの部分を取り上げていたからです。 → 宗像市にも「光の道」神社
lunaさんの調査依頼は、この記事が元では?
参道入口からの朝日を調べてみました。



上から、今年(令和元年)の5月4日・6月22日(夏至)・8月9日の画像です。
私としては珍しく地図表記を合わせてみました。これが、参道がよくわかって、とても良いです!
見ることができるのは、台地の縁である、「参道入口から62m地点」までのようです。
参道正面から日が昇るのは5月4日、日の出の位置は徐々に左に移動して、夏至には8°程離れてしまいます。
でも、日の出の瞬間にこだわらなければ、5月4日以降に参道の正面の朝日を見ることができると思います。
夏至の6月22日でも、7時20分頃には参道の正面に朝日が位置しますので、輝いた参道を見ることができるのでは?と思います。
その後、日の出の位置は右に移動して、8月9日に参道正面に戻ることになります。
実は、お話は、ここからなのです。
「入口から62m地点」からならば、逆に参道の入り口が見えるはずです。夕日が見えるとしたら、どこに沈むんだろう?

18km×9kmの範囲です
馬頭岳を始点とする参道のラインは、宮地岳山頂の85m程北に至るのですが、「参道入口から62m地点」からこの方向を望んでも、西隣の山塊に阻まれます。見える場所は、上の上の地図に詳しく記してあります「稜線」という地点です。


台地の縁である「参道入口から62m地点」から「参道入口」を見ることができるはずです。樹木の繁り具合で実際のことはわからないのですが、その正面の「稜線」地点に夕日が沈むのは、今年は2月23日と10月19日と思われます。
2019年(令和元年)2月23日と10月19日。


上の二つの画像は、宮地嶽神社参道終点から、同じ日に沈む夕日を映したたものです。
そう、宮地嶽神社参道から相島に沈む夕日が正面に見える日こそ、2月23日と10月19日だったのです。
同じ夕日を見ていた…

というのが今回のレポートでした。
「お題」で始まる時は、結びの言葉はこれかな?
おあとがよろしいようで…
お題は次のとおり。
「宗像市の八所宮の参道が、朝日に向かって上るようになっているそうです。5月から8月が見頃だそうで、夕日の「光の道」に対応して「朝日の道」で有名になるかもしれません。で、この時期ということは、夏至ライン上に造られた?」
調べてみました。ただ、数値地図を使用したカシミール3Dの画像は、短い距離を調べる場合は、確実な結果ではないかもしれません。実際に現地で見てみるのが一番ですので、あくまで参考ということで、御容赦いただきますよう、お願いいたします。
さて、「八所宮(はっしょぐう)」は福岡県宗像市にある神社です。lunaさんの記事に詳しいです → 八所宮(Ⅰ)
その参道は東からやや北の方向へ、森の斜面を登ります。

240m×120mの範囲です

500m×300mの範囲です
車道に面した参道入口から30m程で、階段が急になるようです。更に30m程進むとなだらかな台地状の地形になります。
もう少し進むと参道は北寄りに曲がって「八所宮」に至ります。ここが台地の一番奥になるようです。
今回は、参道入口から台地の縁までの直線部分を対象としました。
理由としましては、この直線部分をそのまま東に延ばすと、東隣の山塊である「馬頭岳」の三町境界のピークに至るからです。

「馬頭岳」は標高209mとされ、いくつものピークがあるようですが、この三町境界(遠賀町・岡垣町・鞍手町)のピークには「アリーナヶ丘」という手造りの標識があるようです。遠賀町の造った馬頭岳頂上標識は東隣のピークにあります。この山塊の最高峰はそのまた東隣のピークになって、標高は220mを超えています。どれが本当の「馬頭岳頂上」なのか…一応、三町の境界に歴史的な意味があるような気がするのですが…馬頭岳は、以前菊如さんに教えていただいた山ですね。
もう一つの理由は、西日本新聞が参道のこの部分を取り上げていたからです。 → 宗像市にも「光の道」神社
lunaさんの調査依頼は、この記事が元では?
参道入口からの朝日を調べてみました。



上から、今年(令和元年)の5月4日・6月22日(夏至)・8月9日の画像です。
私としては珍しく地図表記を合わせてみました。これが、参道がよくわかって、とても良いです!
見ることができるのは、台地の縁である、「参道入口から62m地点」までのようです。
参道正面から日が昇るのは5月4日、日の出の位置は徐々に左に移動して、夏至には8°程離れてしまいます。
でも、日の出の瞬間にこだわらなければ、5月4日以降に参道の正面の朝日を見ることができると思います。
夏至の6月22日でも、7時20分頃には参道の正面に朝日が位置しますので、輝いた参道を見ることができるのでは?と思います。
その後、日の出の位置は右に移動して、8月9日に参道正面に戻ることになります。
実は、お話は、ここからなのです。
「入口から62m地点」からならば、逆に参道の入り口が見えるはずです。夕日が見えるとしたら、どこに沈むんだろう?

18km×9kmの範囲です
馬頭岳を始点とする参道のラインは、宮地岳山頂の85m程北に至るのですが、「参道入口から62m地点」からこの方向を望んでも、西隣の山塊に阻まれます。見える場所は、上の上の地図に詳しく記してあります「稜線」という地点です。


台地の縁である「参道入口から62m地点」から「参道入口」を見ることができるはずです。樹木の繁り具合で実際のことはわからないのですが、その正面の「稜線」地点に夕日が沈むのは、今年は2月23日と10月19日と思われます。
2019年(令和元年)2月23日と10月19日。


上の二つの画像は、宮地嶽神社参道終点から、同じ日に沈む夕日を映したたものです。
そう、宮地嶽神社参道から相島に沈む夕日が正面に見える日こそ、2月23日と10月19日だったのです。
同じ夕日を見ていた…

というのが今回のレポートでした。
「お題」で始まる時は、結びの言葉はこれかな?
おあとがよろしいようで…
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志摩の日の入り・伊勢の日の出 その4
この話の最後は、全く私の想像になってしまうのですが…
夏至の日の入り・日の出方向に近いラインをまとめてみましょう。
壱岐の「男岳(男嶽神社)」 ← (方位のライン)糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」 299.94°
壱岐の「女岳(女嶽神社)」 ← (太陽のライン)糸島の「女天ヶ岳」 夏至の日の入り
壱岐の「女岳(女嶽神社)」 ← (太陽のライン)糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」 夏至の日の入り
壱岐の「女岳(女嶽神社)」 ← (太陽のライン)糸島の「櫻井神社」 夏至の日の入り
富士山 ← (太陽のライン)「伊勢神宮内宮」 夏至の日の出
富士山 ← (方位のライン)「金剛證寺」 60.00°
富士山 ← (方位のライン)「神島」 59.99°
「伊勢神宮内宮」は「天照大御神」を祀ります。
「櫻井大神宮」は伊勢神宮内宮・外宮の御分霊(寛永2年(1625年)に勧請)として「天照大御神・豊受大御神」を祀ります。
アマテラスに祈る山(夏至の太陽が昇り、沈む山)として富士山と女岳(壱岐)が選ばれたのは明らかだと思います。
さて、過去の探索で何度も出会ったのは、「大地のライン」(方位角のライン等)をベースとして、ライン上のどこかから「天のライン」(太陽のライン等)を発信する例でした。
今回の、夏至の日の入り方面では、 『壱岐の「男岳(男嶽神社)」 ← (方位のライン)糸島の「男天ヶ岳」 299.94°』 が、ベースとなる「大地のライン」になると思います。
ここで、無視できない重要な伝承があります。男岳は「月読命」が降臨した山だというのです。
ちょうど、今回の探索を始めた頃に、七色さんが見た夢を思い出します。
「隣り合った高い山と低い山があって、高い山には人々が登ってお祈りをしているのですが、低い山は巫女だけが登ることを許されて、祈りを捧げている」という夢です。
高い山は壱岐の男岳(男嶽神社)、低い山は女岳(女嶽神社)を連想します。巫女はアマテラスに祈りを捧げているのでしょうか…でも、高い山に対して祈っているとも考えられます。
もうひとつ、今回の探索では、「ペア」、特に男女のペアが多く見受けられました。
壱岐の「男嶽神社(男岳)」と「女嶽神社(女岳)」:サルタヒコとアメノウズメの御夫妻を祀る
糸島の「夫婦岩」:イザナギとイザナミの御夫妻を祀る
糸島の「女天ヶ岳」と「男天ヶ岳」
糸島の「櫻井大神宮」:天照大御神(伊勢神宮内宮の分霊)と豊受大御神(伊勢神宮外宮の分霊)を祀る
夏至の日の出方面ではどうでしょう?
富士山にも、伊勢神宮内宮にも、「大地のライン」はあります。どちらも大変長いお話になりますので、それは追って書いていきます。ですが、そこに「月読命」を見出すことはできていません。
ですが、「ペア」という見方をすると、ヒントがあります。
富士山とペアになる山を見出すことはできませんが、伊勢神宮内宮にはペアがあります。「伊勢神宮外宮」です。
そして、「伊勢神宮外宮」のすぐ北側に、外宮と密接な関係があると思われる神社があります。
それが外宮別宮「月夜見宮(つきよみのみや)」です。
月夜見尊(つきよみのみこと)と月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)を祀ります。

久しぶりに写真を載せることができました。これは2017年4月の月夜見宮です。次の遷宮の時に左側のスペース(古殿地または新御敷地)に社殿が建つわけです。
月夜見宮には2本のラインが到達しています。

105km×120kmの範囲です
「伊吹山」から「月夜見宮」まで 164.98°(距離 106.194km) 165°との誤差 -0.02°(約 37m)
「三河本宮山」から「月夜見宮」まで 234.98°(距離 80.147km) 235°との誤差 -0.02°(約 28m)
165°も 235°も、あまり馴染みの無い角度ですが、当サイトは 5°の倍数を有意としていますので、OKなのです!

1000m×1000mの範囲です

1000m×1100mの範囲です

1000m×1400mの範囲です
上の地図を見ると、月夜見宮が四角い堀に囲まれていることがわかります。
これは、珍しいのではないでしょうか。奈良県橿原市にある神武天皇陵を連想するのですが、大きさもほぼ同じですねぇ…
他に思い浮かべることができないのですけど…
そして、今まで気が付かなかったのですが、外宮も水に囲まれているのですね!これも周濠ではないでしょうか。
月夜見宮も外宮も、水に囲まれていることに大きな意味があるのだと思います。
「伊吹山」は滋賀県と岐阜県にまたがる標高1377mの山です。ヤマトタケル伝承で知られていると思いますが、当サイトでは尾張氏の聖山と考えています。しかしそれ以上に、ラインの起点となることが多く、ラインから考えると、中部地方から西日本にかけての代表的なというか、最高の聖山であると思っています。

上の写真は、養老山地の最高峰である笙ヶ岳(しょうがたけ)への登山道から北西方面を撮影した「伊吹山」です。ラインは養老山地と西隣の鈴鹿山脈の間を通ります。
下の図は伊吹山から月夜見宮方面への展望です。

白い目盛は1°刻みですので(太陽や月が2個並んで入るくらいの角度)、かなり望遠になっています。
「三河本宮山」は愛知県にある標高789mの山です。山頂部に砥鹿神社(とがじんじゃ)奥宮がある(かつては奥宮ではなく、本社があったとのこと)、信仰の山です。砥鹿神社は三河国一宮であり、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りします。

写真は南側の石巻山山頂部からの「三河本宮山」です。
下の図は三河本宮山から月夜見宮方面への展望です。

同じく、白い目盛は1°刻みです。
そして、月夜見宮から外宮に直接のラインを引きます。

1000m×1400mの範囲です
このラインの引き方は、初めてなのですが、解説します。
まず、月夜見宮の位置ですが、伊勢神宮では内宮外宮の正宮と14所の別宮で式年遷宮がありますよね。そうすると、現在の社殿と、隣の古殿地または新御敷地の、どちらをポイントにとったらいいのかわからない…ですので、その中間をポイントにしています。
月夜見宮の写真を最初に載せましたが、現在の社殿(東側)と、前回のというか、次回の社殿(西側)の中間をポイントとしているのです。そこが一番大切な場所というわけではないのでしょうが、致し方ないです。
上の地図で外宮としているところも同じです。左右に黒い点を印しているのですが、左(西)側の点が現在の社殿、右(東)側の点が遷宮する位置です。中間地点は塀のあたりになってしまいますねぇ…下は外宮の写真です。

さて、伊吹山から月夜見宮への164.98°のラインを逆に見ると、月夜見宮から伊吹山へ345.15°の角度になります。(※344.98°にはなりません。伊吹山と月夜見宮のそれぞれの真北が平行にならないからです。地球は球体ですのでそれぞれの真北は北極点で交わるからです。)
下の図は、月夜見宮から伊吹山への展望です。

同様に、三河本宮山から月夜見宮への234.98°のラインを逆に見ると、54.57°の角度になります。
下の図は、月夜見宮から三河本宮山への展望です。

二本のラインが作る角度は、(360°-345.15°)+54.57°=69.42°
月夜見宮に届く、この2本のラインの中間を、月夜見宮から反対方向に延ばすわけです。
360°-69.42°=290.58° 290.58°÷2=145.29°
つまり、月夜見宮に至る二本のラインを均等に合わせて一本にするというイメージです。そうすると、合流したラインが外宮に至るわけです。
何故そう考えたかというと、上の地図のラインの黄色く塗った部分に意味があったからです。
拡大してみましょう。

やはり黄色く塗ってありますが、この合流したラインに添って道があります。「神路通り(かみじどおり)」といいます。
「神路通り」はその名の通り、「神の通う(かよう)路(みち)」なのだそうです。
月夜見尊が、夜、宮の石垣に杖を当てて白馬に変え、その馬に乗って、外宮の豊受大神の元に通ったのだそうです。
夜にこの道を歩く人は、神様の邪魔にならないように、道の真ん中を避けて通るのだそうです。
神路通りから外宮への入口は北御門(きたみかど)といいます。明治時代に伊勢市駅ができるまでは、ここが正面口だったそうです。
ところでですね、月夜見宮から外宮へ向かうこのライン、この方位角が何度かというと、前に書きました通り、月夜見宮から三河本宮山を見ると 54.57°ですので、それに 145.29°を加えて 199.86°になります。
真北を 0°として、時計回りに 199.86°になるわけです。
つまり、ほとんど 200°なのです。

月夜見宮から伊吹山を見て、三河本宮山を見て、合流したラインを反対側に延ばしたのではなく、元々のコンセプトとして、上の図を描こうとしていたという可能性もあるのです。
月夜見宮から外宮のどこかまで、せいぜい 800mです。 199.86°と 200°との差は 0.14°です。
三角関数を使って距離に直すと sin 0.14°× 800m = 約 2m になります。
神路通りの終点までくらいだと、その半分の 1mくらいです。
上の神路通りを拡大した地図でも、赤いラインはほとんど変わりません。
ですので、これも「合流」の方法のひとつだとお考えください!
「伊吹山」と「三河本宮山」、それぞれの山を起源とする二本のラインが月夜見宮で合流して、一本のラインとなって外宮に流れ込んでいる。 と言うよりも、合流したライン上に、外宮が造られたのだと思います。
でも、合流したラインが外宮に到達してはいますが、境内のどこなのか…言い換えると、どこを基準点として外宮を造ったのか、これではよくわかりませんね…
これを調べるヒントが、微妙な高低差を表現する、カシミール3Dのスーパー地形にありました。
月夜見宮にも外宮にも、「基壇」とも言うべき、四角なベースがあったのです。

1000m×1400mの範囲です
すごく大まかに言って、月夜見宮の基壇上は標高3mくらい、基壇の下は標高2mくらいです。ただし、更に周辺の標高は3mくらいです。外宮の基壇上は標高5mくらい、基壇の下は標高3.5mくらいです。どちらも基壇上は、標高差1m以内の平面に収まっているようです。(月夜見宮の社殿の地面は、更に1mくらい高く盛っているみたいですけど…)
ラインを重ねると下の図になります。

1000m×1400mの範囲です
拡大してみましょう。

300m×300mの範囲です
月夜見宮の基壇は台形に近く、正確な大きさはとても測れないのですが、西側の縦の辺・東側の縦の辺とも 95mくらいです。北側の横の辺も 95mくらいですが、南側の横の辺は 90mくらいです。
ラインのポイントは先に申し上げた通り、遷宮する二つの社殿位置の真ん中にとってあります。

300m×300mの範囲です
外宮の基壇は長方形で、東西南北が合っています。やはりざっとですが、西側・東側の縦の辺は 113mくらいです。北側・南側の横の辺は 125mくらいです。 遷宮する二つの社殿位置の真ん中を赤く印してあります。
やはり、外宮のどこを通っているのか、よくわかりません。
カシミール3Dでは、スーパー地形と国土地理院発行の空中写真が合成されます。

200m×200mの範囲です 今回の遷宮前の写真ですね
内宮も外宮も、社殿は四重の垣根に囲まれています。どうやら外宮の基壇は、その一番外側の「板垣」に囲まれた範囲のようです。東西二つの垣根を合わせた範囲のようです。でも、南側については、古殿地の板垣の跡を見ても、ほとんど段差はなかったけれども、どうなってるんだろう…
さて、お堀で囲まれた月夜見宮の中心付近に東西の社殿の位置がありますが、ここで、基壇の中心位置を想定してみましょう。
スーパー地形に描かれた基壇の西側の辺がわかりにくいのですが、この中心位置を求めると、西の社殿位置に近いようです。

月夜見宮の基壇の中心は、西の社殿(現在の古殿地・新御敷地)付近か、もう少し西側になっていると思います。ここはポイントを西社殿に取ってみます。
私は小数点第二位までの角度の数値を扱っていますが、この場所でも、伊吹山・三河本宮山との関係数値は同じです。
ここで伊吹山・三河本宮山からのラインを合流してみますと…

月夜見宮の基壇中心 = 西社殿位置からの赤い合流ラインは…

外宮の基壇の中心付近に至るのです。

200m×200mの範囲です
接近した赤い二本のラインの、左側が月夜見宮西社殿から200°右側が199.86°です
スーパー地形に線を引いた大まかな地図を元にしてはいるのですが、これが元々の姿ではないかと思うのです。
伊吹山と三河本宮山からラインを引いてポイントとし、更に合流した力を導いてポイントとした。その後、それぞれの地点を中心として基壇を造り、長い歴史の中でその基壇の中に祈る場所を決めていった…
長々と書いてきましたが、何が言いたかったというと、「月夜見宮」と「外宮」が一体のものだったということなのです。
最初に申し上げました通り、以下は全く私の想像になってしますのですが…
月夜見宮が祀る「月夜見尊=月読命」と、外宮が祀る「豊受大御神」は、一体のものだったのではないでしょうか?
ならば、本来は、伊勢神宮が祀るのは、太陽を象徴とする「天照大御神」と、月を象徴とする「月読命」だったのでは?
そう考えると、ペアが成立しそうです。
志摩(糸島)の日の入りは、糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」から壱岐の「女岳(女嶽神社)」に沈む、夏至の太陽の「天照大御神」に祈る。
糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」からは、大地のラインを通じて、壱岐の「男岳(男嶽神社)」の「月読命」に祈る。
伊勢の日の出は、「伊勢神宮内宮」から富士山から昇る、夏至の太陽の「天照大御神」に祈る。
「伊勢神宮外宮」・「月夜見宮」からは、「月夜見尊=月読命」に祈る。ただし、大地のラインを通じる伊吹山・三河本宮山と月読命の関係は不明。
豊受大御神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=稲荷神」という説があります。ということであれば、全国のお稲荷さんが祀るのは、実は月読命なのでは?というのは空想が過ぎるということでしょうが…
ということで、今回の探索はとりあえず終了です。「月読命」にもっと注目しよう!ということになるのかなぁ…
追記として
式年遷宮する神社は、その基壇の中心を最も大切なポイントとして考えればいいのでは?
と思って、伊勢神宮の内宮をスーパー地形で見てみたのですが…

300m×300mの範囲です
外宮と同じく、基壇は板垣の範囲になるようですが、内宮では東社殿と西社殿ではっきりと分かれてしまっています!これでは中心となるポイントが二つになってしまいます…やはり伊勢神宮は簡単ではないですねぇ…
もうひとつ追記として
月夜見宮のお堀についてですが、東の辺と西の辺については、高倉山を基準として造っているようです。

1000m×1400mの範囲です
南の辺と北の辺の基準については、 まだわかっていません。
夏至の日の入り・日の出方向に近いラインをまとめてみましょう。
壱岐の「男岳(男嶽神社)」 ← (方位のライン)糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」 299.94°
壱岐の「女岳(女嶽神社)」 ← (太陽のライン)糸島の「女天ヶ岳」 夏至の日の入り
壱岐の「女岳(女嶽神社)」 ← (太陽のライン)糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」 夏至の日の入り
壱岐の「女岳(女嶽神社)」 ← (太陽のライン)糸島の「櫻井神社」 夏至の日の入り
富士山 ← (太陽のライン)「伊勢神宮内宮」 夏至の日の出
富士山 ← (方位のライン)「金剛證寺」 60.00°
富士山 ← (方位のライン)「神島」 59.99°
「伊勢神宮内宮」は「天照大御神」を祀ります。
「櫻井大神宮」は伊勢神宮内宮・外宮の御分霊(寛永2年(1625年)に勧請)として「天照大御神・豊受大御神」を祀ります。
アマテラスに祈る山(夏至の太陽が昇り、沈む山)として富士山と女岳(壱岐)が選ばれたのは明らかだと思います。
さて、過去の探索で何度も出会ったのは、「大地のライン」(方位角のライン等)をベースとして、ライン上のどこかから「天のライン」(太陽のライン等)を発信する例でした。
今回の、夏至の日の入り方面では、 『壱岐の「男岳(男嶽神社)」 ← (方位のライン)糸島の「男天ヶ岳」 299.94°』 が、ベースとなる「大地のライン」になると思います。
ここで、無視できない重要な伝承があります。男岳は「月読命」が降臨した山だというのです。
ちょうど、今回の探索を始めた頃に、七色さんが見た夢を思い出します。
「隣り合った高い山と低い山があって、高い山には人々が登ってお祈りをしているのですが、低い山は巫女だけが登ることを許されて、祈りを捧げている」という夢です。
高い山は壱岐の男岳(男嶽神社)、低い山は女岳(女嶽神社)を連想します。巫女はアマテラスに祈りを捧げているのでしょうか…でも、高い山に対して祈っているとも考えられます。
もうひとつ、今回の探索では、「ペア」、特に男女のペアが多く見受けられました。
壱岐の「男嶽神社(男岳)」と「女嶽神社(女岳)」:サルタヒコとアメノウズメの御夫妻を祀る
糸島の「夫婦岩」:イザナギとイザナミの御夫妻を祀る
糸島の「女天ヶ岳」と「男天ヶ岳」
糸島の「櫻井大神宮」:天照大御神(伊勢神宮内宮の分霊)と豊受大御神(伊勢神宮外宮の分霊)を祀る
夏至の日の出方面ではどうでしょう?
富士山にも、伊勢神宮内宮にも、「大地のライン」はあります。どちらも大変長いお話になりますので、それは追って書いていきます。ですが、そこに「月読命」を見出すことはできていません。
ですが、「ペア」という見方をすると、ヒントがあります。
富士山とペアになる山を見出すことはできませんが、伊勢神宮内宮にはペアがあります。「伊勢神宮外宮」です。
そして、「伊勢神宮外宮」のすぐ北側に、外宮と密接な関係があると思われる神社があります。
それが外宮別宮「月夜見宮(つきよみのみや)」です。
月夜見尊(つきよみのみこと)と月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)を祀ります。

久しぶりに写真を載せることができました。これは2017年4月の月夜見宮です。次の遷宮の時に左側のスペース(古殿地または新御敷地)に社殿が建つわけです。
月夜見宮には2本のラインが到達しています。

105km×120kmの範囲です
「伊吹山」から「月夜見宮」まで 164.98°(距離 106.194km) 165°との誤差 -0.02°(約 37m)
「三河本宮山」から「月夜見宮」まで 234.98°(距離 80.147km) 235°との誤差 -0.02°(約 28m)
165°も 235°も、あまり馴染みの無い角度ですが、当サイトは 5°の倍数を有意としていますので、OKなのです!

1000m×1000mの範囲です

1000m×1100mの範囲です

1000m×1400mの範囲です
上の地図を見ると、月夜見宮が四角い堀に囲まれていることがわかります。
これは、珍しいのではないでしょうか。奈良県橿原市にある神武天皇陵を連想するのですが、大きさもほぼ同じですねぇ…
他に思い浮かべることができないのですけど…
そして、今まで気が付かなかったのですが、外宮も水に囲まれているのですね!これも周濠ではないでしょうか。
月夜見宮も外宮も、水に囲まれていることに大きな意味があるのだと思います。
「伊吹山」は滋賀県と岐阜県にまたがる標高1377mの山です。ヤマトタケル伝承で知られていると思いますが、当サイトでは尾張氏の聖山と考えています。しかしそれ以上に、ラインの起点となることが多く、ラインから考えると、中部地方から西日本にかけての代表的なというか、最高の聖山であると思っています。

上の写真は、養老山地の最高峰である笙ヶ岳(しょうがたけ)への登山道から北西方面を撮影した「伊吹山」です。ラインは養老山地と西隣の鈴鹿山脈の間を通ります。
下の図は伊吹山から月夜見宮方面への展望です。

白い目盛は1°刻みですので(太陽や月が2個並んで入るくらいの角度)、かなり望遠になっています。
「三河本宮山」は愛知県にある標高789mの山です。山頂部に砥鹿神社(とがじんじゃ)奥宮がある(かつては奥宮ではなく、本社があったとのこと)、信仰の山です。砥鹿神社は三河国一宮であり、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りします。

写真は南側の石巻山山頂部からの「三河本宮山」です。
下の図は三河本宮山から月夜見宮方面への展望です。

同じく、白い目盛は1°刻みです。
そして、月夜見宮から外宮に直接のラインを引きます。

1000m×1400mの範囲です
このラインの引き方は、初めてなのですが、解説します。
まず、月夜見宮の位置ですが、伊勢神宮では内宮外宮の正宮と14所の別宮で式年遷宮がありますよね。そうすると、現在の社殿と、隣の古殿地または新御敷地の、どちらをポイントにとったらいいのかわからない…ですので、その中間をポイントにしています。
月夜見宮の写真を最初に載せましたが、現在の社殿(東側)と、前回のというか、次回の社殿(西側)の中間をポイントとしているのです。そこが一番大切な場所というわけではないのでしょうが、致し方ないです。
上の地図で外宮としているところも同じです。左右に黒い点を印しているのですが、左(西)側の点が現在の社殿、右(東)側の点が遷宮する位置です。中間地点は塀のあたりになってしまいますねぇ…下は外宮の写真です。

さて、伊吹山から月夜見宮への164.98°のラインを逆に見ると、月夜見宮から伊吹山へ345.15°の角度になります。(※344.98°にはなりません。伊吹山と月夜見宮のそれぞれの真北が平行にならないからです。地球は球体ですのでそれぞれの真北は北極点で交わるからです。)
下の図は、月夜見宮から伊吹山への展望です。

同様に、三河本宮山から月夜見宮への234.98°のラインを逆に見ると、54.57°の角度になります。
下の図は、月夜見宮から三河本宮山への展望です。

二本のラインが作る角度は、(360°-345.15°)+54.57°=69.42°
月夜見宮に届く、この2本のラインの中間を、月夜見宮から反対方向に延ばすわけです。
360°-69.42°=290.58° 290.58°÷2=145.29°
つまり、月夜見宮に至る二本のラインを均等に合わせて一本にするというイメージです。そうすると、合流したラインが外宮に至るわけです。
何故そう考えたかというと、上の地図のラインの黄色く塗った部分に意味があったからです。
拡大してみましょう。

やはり黄色く塗ってありますが、この合流したラインに添って道があります。「神路通り(かみじどおり)」といいます。
「神路通り」はその名の通り、「神の通う(かよう)路(みち)」なのだそうです。
月夜見尊が、夜、宮の石垣に杖を当てて白馬に変え、その馬に乗って、外宮の豊受大神の元に通ったのだそうです。
夜にこの道を歩く人は、神様の邪魔にならないように、道の真ん中を避けて通るのだそうです。
神路通りから外宮への入口は北御門(きたみかど)といいます。明治時代に伊勢市駅ができるまでは、ここが正面口だったそうです。
ところでですね、月夜見宮から外宮へ向かうこのライン、この方位角が何度かというと、前に書きました通り、月夜見宮から三河本宮山を見ると 54.57°ですので、それに 145.29°を加えて 199.86°になります。
真北を 0°として、時計回りに 199.86°になるわけです。
つまり、ほとんど 200°なのです。

月夜見宮から伊吹山を見て、三河本宮山を見て、合流したラインを反対側に延ばしたのではなく、元々のコンセプトとして、上の図を描こうとしていたという可能性もあるのです。
月夜見宮から外宮のどこかまで、せいぜい 800mです。 199.86°と 200°との差は 0.14°です。
三角関数を使って距離に直すと sin 0.14°× 800m = 約 2m になります。
神路通りの終点までくらいだと、その半分の 1mくらいです。
上の神路通りを拡大した地図でも、赤いラインはほとんど変わりません。
ですので、これも「合流」の方法のひとつだとお考えください!
「伊吹山」と「三河本宮山」、それぞれの山を起源とする二本のラインが月夜見宮で合流して、一本のラインとなって外宮に流れ込んでいる。 と言うよりも、合流したライン上に、外宮が造られたのだと思います。
でも、合流したラインが外宮に到達してはいますが、境内のどこなのか…言い換えると、どこを基準点として外宮を造ったのか、これではよくわかりませんね…
これを調べるヒントが、微妙な高低差を表現する、カシミール3Dのスーパー地形にありました。
月夜見宮にも外宮にも、「基壇」とも言うべき、四角なベースがあったのです。

1000m×1400mの範囲です
すごく大まかに言って、月夜見宮の基壇上は標高3mくらい、基壇の下は標高2mくらいです。ただし、更に周辺の標高は3mくらいです。外宮の基壇上は標高5mくらい、基壇の下は標高3.5mくらいです。どちらも基壇上は、標高差1m以内の平面に収まっているようです。(月夜見宮の社殿の地面は、更に1mくらい高く盛っているみたいですけど…)
ラインを重ねると下の図になります。

1000m×1400mの範囲です
拡大してみましょう。

300m×300mの範囲です
月夜見宮の基壇は台形に近く、正確な大きさはとても測れないのですが、西側の縦の辺・東側の縦の辺とも 95mくらいです。北側の横の辺も 95mくらいですが、南側の横の辺は 90mくらいです。
ラインのポイントは先に申し上げた通り、遷宮する二つの社殿位置の真ん中にとってあります。

300m×300mの範囲です
外宮の基壇は長方形で、東西南北が合っています。やはりざっとですが、西側・東側の縦の辺は 113mくらいです。北側・南側の横の辺は 125mくらいです。 遷宮する二つの社殿位置の真ん中を赤く印してあります。
やはり、外宮のどこを通っているのか、よくわかりません。
カシミール3Dでは、スーパー地形と国土地理院発行の空中写真が合成されます。

200m×200mの範囲です 今回の遷宮前の写真ですね
内宮も外宮も、社殿は四重の垣根に囲まれています。どうやら外宮の基壇は、その一番外側の「板垣」に囲まれた範囲のようです。東西二つの垣根を合わせた範囲のようです。でも、南側については、古殿地の板垣の跡を見ても、ほとんど段差はなかったけれども、どうなってるんだろう…
さて、お堀で囲まれた月夜見宮の中心付近に東西の社殿の位置がありますが、ここで、基壇の中心位置を想定してみましょう。
スーパー地形に描かれた基壇の西側の辺がわかりにくいのですが、この中心位置を求めると、西の社殿位置に近いようです。

月夜見宮の基壇の中心は、西の社殿(現在の古殿地・新御敷地)付近か、もう少し西側になっていると思います。ここはポイントを西社殿に取ってみます。
私は小数点第二位までの角度の数値を扱っていますが、この場所でも、伊吹山・三河本宮山との関係数値は同じです。
ここで伊吹山・三河本宮山からのラインを合流してみますと…

月夜見宮の基壇中心 = 西社殿位置からの赤い合流ラインは…

外宮の基壇の中心付近に至るのです。

200m×200mの範囲です
接近した赤い二本のラインの、左側が月夜見宮西社殿から200°右側が199.86°です
スーパー地形に線を引いた大まかな地図を元にしてはいるのですが、これが元々の姿ではないかと思うのです。
伊吹山と三河本宮山からラインを引いてポイントとし、更に合流した力を導いてポイントとした。その後、それぞれの地点を中心として基壇を造り、長い歴史の中でその基壇の中に祈る場所を決めていった…
長々と書いてきましたが、何が言いたかったというと、「月夜見宮」と「外宮」が一体のものだったということなのです。
最初に申し上げました通り、以下は全く私の想像になってしますのですが…
月夜見宮が祀る「月夜見尊=月読命」と、外宮が祀る「豊受大御神」は、一体のものだったのではないでしょうか?
ならば、本来は、伊勢神宮が祀るのは、太陽を象徴とする「天照大御神」と、月を象徴とする「月読命」だったのでは?
そう考えると、ペアが成立しそうです。
志摩(糸島)の日の入りは、糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」から壱岐の「女岳(女嶽神社)」に沈む、夏至の太陽の「天照大御神」に祈る。
糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」からは、大地のラインを通じて、壱岐の「男岳(男嶽神社)」の「月読命」に祈る。
伊勢の日の出は、「伊勢神宮内宮」から富士山から昇る、夏至の太陽の「天照大御神」に祈る。
「伊勢神宮外宮」・「月夜見宮」からは、「月夜見尊=月読命」に祈る。ただし、大地のラインを通じる伊吹山・三河本宮山と月読命の関係は不明。
豊受大御神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)=稲荷神」という説があります。ということであれば、全国のお稲荷さんが祀るのは、実は月読命なのでは?というのは空想が過ぎるということでしょうが…
ということで、今回の探索はとりあえず終了です。「月読命」にもっと注目しよう!ということになるのかなぁ…
追記として
式年遷宮する神社は、その基壇の中心を最も大切なポイントとして考えればいいのでは?
と思って、伊勢神宮の内宮をスーパー地形で見てみたのですが…

300m×300mの範囲です
外宮と同じく、基壇は板垣の範囲になるようですが、内宮では東社殿と西社殿ではっきりと分かれてしまっています!これでは中心となるポイントが二つになってしまいます…やはり伊勢神宮は簡単ではないですねぇ…
もうひとつ追記として
月夜見宮のお堀についてですが、東の辺と西の辺については、高倉山を基準として造っているようです。

1000m×1400mの範囲です
南の辺と北の辺の基準については、 まだわかっていません。
志摩の日の入り・伊勢の日の出 その3
糸島半島の二見ヶ浦に「夫婦岩」があります。住所は福岡県糸島市志摩桜井になります(櫻井神社の社地になります)。

1500m×1500mの範囲です
朝日の伊勢二見浦に対し、夕日の筑前二見ヶ浦として知られ、「日本の渚100選」「日本の夕日100選」にも選ばれる名勝スポットなのです。
この夫婦岩そのものは、伊弉諾命(いざなぎのみこと)と、伊弉冉命(いざなみのみこと)を祀ります。
糸島の夫婦岩からの夏至の日の入りを見てみましょう。

太陽は壱岐に沈みます。夏至の太陽が、最も北寄り(画像上の右寄り)に沈む太陽ですので、これでいっぱいいっぱいです。
筑前二見ヶ浦の夫婦岩から見た夕日は、海に沈むのではなく、壱岐に沈むのでした。
さて、三重県の志摩半島の二見浦にも「夫婦岩」があります。

1500m×1500mの範囲です
夫婦岩の海岸には「二見興玉神社」があります。
夫婦岩の沖合700m程の海中にある「興玉神石」の遥拝所であり、夫婦岩は、その門になるようです。
「興玉神石」は猿田彦大神が出現した石のようですが、残念ながら場所を特定できません。
「猿田彦大神」と明治時代に合祀された「宇迦御魂(うかのみたま)大神」を祀ります。
伊勢の夫婦岩から、夏至の日の出を見ることができます。

そうです。伊勢の夫婦岩から見て、夏至の朝日は、富士山から昇るのです。
前回の記事は、壱岐の「女岳」(頂上が女嶽神社)を焦点として、そこに沈む「夏至の夕日」が見える場所として、糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」を取り上げました。
壱岐の「男岳:男嶽神社」・「女岳:女嶽神社」が「猿田彦神」・「天鈿女命」の御夫婦を祀り、糸島の「櫻井大神宮」が「天照大御神」・「豊受大御神」を祀ることを思うと、「二見興玉神社」が猿田彦大神を祀ることとの関連を考えざるを得ません。
そして、ここは、夏至の太陽=天照大御神が富士山から昇るという象徴的な場所なのです。
更に宇迦御魂大神=豊受大御神とも考えられるのです。
更に、更に、壱岐の「男岳」は「月読命」が降臨した山と伝えられます。
複雑だなぁ…
前回、壱岐の「女岳:女嶽神社」に沈む「夏至の夕日」が見られる場所を探したように、「富士山」から昇る「夏至の朝日」が見られる場所を探してみましょう。その延長線上に、きっと神社があるはずです。

夏至の日の出直後の画像です。
「秋葉山」とあるのは、「秋葉神社上社(全国秋葉神社総本宮)」が鎮座する、その秋葉山です。
「安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)」は、豊橋市の中心部にあります。「安曇族」が移り住んだ地だと思います。
「石巻神社」は石巻山の中腹にあって、大己貴命を祀ります。信仰の山です。
「富幕山(とんまくやま)」には特に伝承は無いみたいです…
糸島から見る夏至の日の入は、山の頂上が、もっと太陽の真ん中近くになる画像でしたが、ここは太陽が現れる瞬間の画像を撮影しています。なぜ、そう見える場所をピックアップしたのか…それは延長線上にある神社があまりにもインパクトが強いというか、重要だったからです。

4km×3kmの範囲です
夏至の日の出の画像の撮影地点は、朝熊ヶ岳から西に続く稜線上になります。黄色く右上に延びた直線が富士山の方向です。
この場所から、富士山頂上から昇る、夏至の日の出の瞬間が見られるのです。
そして、左下の逆方向延長線上に「伊勢神宮内宮」が造られたということになります。

4km×3kmの範囲です
上の、スーパー地形図が、よくわかると思います。稜線で見た夏至の日の出を、真っ直ぐ平地まで降ろしている…

12km×9kmの範囲です
朝熊ヶ岳(あさまがたけ)頂上近くの「金剛證寺(こんごうしょうじ)」からは、方位角60.00°のラインが富士山に延びています。
以前に記事を書いています → Pagetop 筑後国一宮「高良大社」 その22 松阪の櫛田神社(3)

240km×180kmの範囲です
「神島」から富士山へも方位角59.99°が設定できます → 筑後国一宮「高良大社」 その24 松阪の櫛田神社(5)
糸島の「女岳」と同じように、「富士山」にも方位としてのラインが複数あるわけです。(当然といえば、当然ですねぇ…他にもいくつもあるのですが、その時々に書いていきます…いつのことになるんだろう)
壱岐の「女岳(女嶽神社)」に沈む夏至の太陽を拝むことのできる場所が、糸島の「櫻井神社・櫻井大神宮」とつなぐライン上にありました。
「富士山」から昇る夏至の太陽を拝むことのできる場所が、「伊勢神宮内宮」とつなぐライン上にありました。
「櫻井大神宮」は「天照大御神・豊受大御神」を祀ります。
「伊勢神宮内宮」は「天照大御神」を祀ります。
共通するのは、「天照大御神」と「夏至の太陽」です。
夏至の太陽に祈ることと、アマテラスに祈ることが、同じだということになるのでしょうか?
まあ、それはそうですよね!
まだ、重要なポイントがあります。壱岐の男岳(男嶽神社)に月読命が最初に降臨したという、そのことです。
(もう1回だけつづきます)

1500m×1500mの範囲です
朝日の伊勢二見浦に対し、夕日の筑前二見ヶ浦として知られ、「日本の渚100選」「日本の夕日100選」にも選ばれる名勝スポットなのです。
この夫婦岩そのものは、伊弉諾命(いざなぎのみこと)と、伊弉冉命(いざなみのみこと)を祀ります。
糸島の夫婦岩からの夏至の日の入りを見てみましょう。

太陽は壱岐に沈みます。夏至の太陽が、最も北寄り(画像上の右寄り)に沈む太陽ですので、これでいっぱいいっぱいです。
筑前二見ヶ浦の夫婦岩から見た夕日は、海に沈むのではなく、壱岐に沈むのでした。
さて、三重県の志摩半島の二見浦にも「夫婦岩」があります。

1500m×1500mの範囲です
夫婦岩の海岸には「二見興玉神社」があります。
夫婦岩の沖合700m程の海中にある「興玉神石」の遥拝所であり、夫婦岩は、その門になるようです。
「興玉神石」は猿田彦大神が出現した石のようですが、残念ながら場所を特定できません。
「猿田彦大神」と明治時代に合祀された「宇迦御魂(うかのみたま)大神」を祀ります。
伊勢の夫婦岩から、夏至の日の出を見ることができます。

そうです。伊勢の夫婦岩から見て、夏至の朝日は、富士山から昇るのです。
前回の記事は、壱岐の「女岳」(頂上が女嶽神社)を焦点として、そこに沈む「夏至の夕日」が見える場所として、糸島の「櫻井大神宮」・「男天ヶ岳」を取り上げました。
壱岐の「男岳:男嶽神社」・「女岳:女嶽神社」が「猿田彦神」・「天鈿女命」の御夫婦を祀り、糸島の「櫻井大神宮」が「天照大御神」・「豊受大御神」を祀ることを思うと、「二見興玉神社」が猿田彦大神を祀ることとの関連を考えざるを得ません。
そして、ここは、夏至の太陽=天照大御神が富士山から昇るという象徴的な場所なのです。
更に宇迦御魂大神=豊受大御神とも考えられるのです。
更に、更に、壱岐の「男岳」は「月読命」が降臨した山と伝えられます。
複雑だなぁ…
前回、壱岐の「女岳:女嶽神社」に沈む「夏至の夕日」が見られる場所を探したように、「富士山」から昇る「夏至の朝日」が見られる場所を探してみましょう。その延長線上に、きっと神社があるはずです。

夏至の日の出直後の画像です。
「秋葉山」とあるのは、「秋葉神社上社(全国秋葉神社総本宮)」が鎮座する、その秋葉山です。
「安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)」は、豊橋市の中心部にあります。「安曇族」が移り住んだ地だと思います。
「石巻神社」は石巻山の中腹にあって、大己貴命を祀ります。信仰の山です。
「富幕山(とんまくやま)」には特に伝承は無いみたいです…
糸島から見る夏至の日の入は、山の頂上が、もっと太陽の真ん中近くになる画像でしたが、ここは太陽が現れる瞬間の画像を撮影しています。なぜ、そう見える場所をピックアップしたのか…それは延長線上にある神社があまりにもインパクトが強いというか、重要だったからです。

4km×3kmの範囲です
夏至の日の出の画像の撮影地点は、朝熊ヶ岳から西に続く稜線上になります。黄色く右上に延びた直線が富士山の方向です。
この場所から、富士山頂上から昇る、夏至の日の出の瞬間が見られるのです。
そして、左下の逆方向延長線上に「伊勢神宮内宮」が造られたということになります。

4km×3kmの範囲です
上の、スーパー地形図が、よくわかると思います。稜線で見た夏至の日の出を、真っ直ぐ平地まで降ろしている…

12km×9kmの範囲です
朝熊ヶ岳(あさまがたけ)頂上近くの「金剛證寺(こんごうしょうじ)」からは、方位角60.00°のラインが富士山に延びています。
以前に記事を書いています → Pagetop 筑後国一宮「高良大社」 その22 松阪の櫛田神社(3)

240km×180kmの範囲です
「神島」から富士山へも方位角59.99°が設定できます → 筑後国一宮「高良大社」 その24 松阪の櫛田神社(5)
糸島の「女岳」と同じように、「富士山」にも方位としてのラインが複数あるわけです。(当然といえば、当然ですねぇ…他にもいくつもあるのですが、その時々に書いていきます…いつのことになるんだろう)
壱岐の「女岳(女嶽神社)」に沈む夏至の太陽を拝むことのできる場所が、糸島の「櫻井神社・櫻井大神宮」とつなぐライン上にありました。
「富士山」から昇る夏至の太陽を拝むことのできる場所が、「伊勢神宮内宮」とつなぐライン上にありました。
「櫻井大神宮」は「天照大御神・豊受大御神」を祀ります。
「伊勢神宮内宮」は「天照大御神」を祀ります。
共通するのは、「天照大御神」と「夏至の太陽」です。
夏至の太陽に祈ることと、アマテラスに祈ることが、同じだということになるのでしょうか?
まあ、それはそうですよね!
まだ、重要なポイントがあります。壱岐の男岳(男嶽神社)に月読命が最初に降臨したという、そのことです。
(もう1回だけつづきます)
志摩の日の入り・伊勢の日の出 その2
糸島の櫻井神社について、lunaさんからコメントをいただきました(と言っても、lunaさんのブログ上でのことです)。
「櫻井神社」は(その前身の「與土姫大明神」も)江戸時代の創建になので、古墳から考えた方がよいのでは?とのことです。
そう、櫻井神社は古墳の上にあるのです。lunaさんの記事があります → 櫻井神社 岩戸開き
うーん…古墳かぁ…伊勢ときれいに対比するつもりだったのですが、少し意味合いが違っちゃうかなぁ…
でも、「女嶽神社(女岳)」に夏至の太陽が沈む地点が周辺にもありますので、「女嶽神社(女岳)」の重要性を補完できると思います。
櫻井神社から南西方向に登る参道を200m程進むと「櫻井大神宮」があります。
社殿の背後が、3m位の高さの尾根になっていますが、そこから海が見えるはずです。

上の画像は、櫻井大神宮の地面から4m上空からの、夏至の日の入りです。すぐ後ろの尾根の上からでも、同じように見えるはずです。200mmの望遠レンズ相当になります。
「櫻井大神宮」の創建は寛永2年(1625年)、「與土姫大明神」よりも古いことになります。ここも lunaさんが詳しいです → 桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている
元々は、慶長15年(1610年)に豪雨があって、「與土姫大明神→櫻井神社」の場所に岩戸(古墳)が開いたのが始まりのようです。黒田家が隣の丘に「櫻井大神宮」を建て(1625年)、続けて寛永9年(1632年)に古墳の上に「與土姫大明神」の社を建てたという順番になります。與土姫大明神が櫻井神社と改称されたのは、明治2年のことだそうです。
櫻井大神宮は天照大御神(あまてらすおおみかみ)・豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀ります。伊勢神宮の内宮・下宮が祀る神様を勧請している訳です。
上の画像の300°のすぐ左に「男岳」があります。頂上のすぐ向こう側に「男嶽神社」が鎮座します。
「櫻井大神宮」から「男嶽神社(男岳)」まで 299.94°(距離 46.904km) 300°との誤差 -0.06°(約 49m)です。
当サイトでは、±0.25°までを有意としていますので、OKです。
男岳とは方位角の関係を結び、女岳とは太陽の運行との関係を結んでいる…
これは「若宮八幡神社」(佐賀県三養基郡みやき町)と屏山・馬見山との関係 → 「ひめちゃご」がつなぐライン群 その1
大阪の「住吉大社」と葛城山・二上山との関係 → 筑後国一宮「高良大社」 その31 松阪の櫛田神社(12)
と、類似すると思います。
「男嶽神社(男岳)」から「櫻井大神宮」へのラインを更に延長すると、山の頂にぶつかります。
「天ヶ岳(あまがたけ)」には二つのピークがあります。「女天ヶ岳(めてんがたけ):標高 261m」と「男天ヶ岳(おてんがたけ):標高 251m」 です。
ラインは「男天ヶ岳」の頂上三角点の南西15m程に到達します。標高は三角点と変わりません。

上の画像は「櫻井大神宮」から見た「男天ヶ岳」です。白い四角が到達点です。16mmの超広角レンズ相当になります。
ずっと南の糸島市役所からはこんなふうに見えます。

これは50mm標準レンズ相当です。
この白い四角から測定します。
「男天ヶ岳」頂上部から「男嶽神社(男岳)」まで 299.94°(距離 48.037km) 300°との誤差 -0.06°(約 50m)です。
そして、夏至の太陽は、やはり女岳に沈みます。

この「男天ヶ岳」から見た姿が元々なのかもしれません。
300°の位置に「男岳(すぐ裏に男嶽神社)」が見えて、夏至の太陽は「女岳(女嶽神社)」に沈む。
当然、太陽の祭祀は「天照大御神」を祀るものです。「女岳(女嶽神社)」に祈ります。
方位角のラインを使った祭祀は「男岳(男嶽神社)」に祈ります。
男岳は「月読命」が降臨した山です。「月読命」に祈ることになると思います。
男天ヶ岳から男岳への 300°のライン上には「櫻井大神宮」を置いて、「天照大御神」と「豊受大御神」を祀ります。
ここからも、夏至の日の入りによって「天照大御神」に、300°のラインに沿って「月読命」に祈ります。
ということは、「月読命」=「豊受大御神」ということになるのではないでしょうか…
と、整理してみたのですが、天ヶ岳の高い方のピーク「女天ヶ岳」からも、夏至の太陽は「女岳(女嶽神社)」に沈むのでした。

でも、「男岳」とは関係を結ばないようです。
前回書きました、七色さんの夢の前半「ふたつの山があって、ひとつには八雷神が祀られていた」というのは、私がここを調べていたときのことだったのですが、残念ながら天ヶ岳に何かが祀られていたという記録はないようです。どうなんでしょうね…
でも、「天ヶ岳」という名前は尋常ではないと思います。理由があると思います。

60km×40kmの範囲です
赤は方位角のライン、黄色は夏至の日没のラインを示します。

3600m×2700mの範囲です

3600m×2700mの範囲です
さて、次に、女岳頂上の女嶽神社から右に延びるのは、宗像大社辺津宮への真東のラインです。真東といっても 89.88°という、少し甘めの角度でした。

ところがこのラインは、方位角のラインではなかったのです。
辺津宮の西1300m程のところの「女嶽神社から見える地点」に登れば、当然壱岐の女嶽神社(女岳)が見えるのですが…
下の画像は今年の春分の日の入りです。

今年(2018年)の春分は、正確には 3月21日01時15分です。この画像より 17時間も前になります。
夏至や冬至は、1週間くらい同じ場所から日が昇ったり沈んだりするようですが、春分・秋分は、日の出入りの場所が一番激しく動きますので、もう一日前の画像をとっておきましょう。20日の日の入りの方が、正確な春分には近いはずです。

上の画像の 7時間後に正確な春分になるわけです。(太陽の軌道は左から右に移動しています)
これって、どう考えればいいのでしょう?正確な春分時点に日が沈むわけではないので、暦って、どう作るんだろう…
更に、今年の秋分の日を調べてみました。

今年(2018年)の秋分は、正確には 9月23日10時54分です。この画像より 7時間前になります。
これは近いですよね。前日の22日の日の入りよりはずっと近いです。(3月20日の日の入りにそっくりの画像ですね~)
でも、まあ、念の為に22日の画像を…

上の画像の17時間後に正確な秋分となります。(これまた春分の日3月21日の日の入りにそっくりの画像です。太陽の軌道は右から左に移動していますね。)
どうやら、正確な春分・秋分の太陽の軌道は、女岳と男岳の、ちょうど真ん中あたりを通るようです。
男岳か、女岳か、どちらを目指したのかはわかりませんでしたが、ここが二分(春分・秋分)の日の入りを祭祀した場所だという可能性があると思います。その延長線上に宗像大社辺津宮がある…

90km×60kmの範囲です
宗像大社辺津宮が、男岳・女岳に沈む太陽を祀るラインから、その位置を定めたのか…
すでに当サイトでは、辺津宮の位置を決めたと思われる、二本のラインを想定しています。
ひとつは、「四王寺山」から「辺津宮」まで 真北 359.99 ° → 筑後国一宮「高良大社」 その13
もうひとつは、「英彦山が見えるポイント」から「英彦山北岳」まで 南東 135.02°その延長線上に「辺津宮」 → 筑後国一宮「高良大社」 その3
といったものです。逆に辺津宮を基準として、二分の日が沈む場所を見出して、壱岐の男岳・女岳を聖なる山と定めた可能性もあります。
結局、よくわからないです。
最後に男岳(男嶽神社)の方位のラインを追加して、今回の記事を終えることにします。

90km×60kmの範囲です

15km×20kmの範囲です

1200m×1600kmの範囲です

1200m×1600kmの範囲です
「男嶽神社(男岳)」から「原の辻(はるのつじ)遺跡 主祭殿」まで 179.92°(距離 8.656km) 真南との誤差 -0.08°(約 12m)
原の辻遺跡は、魏志倭人伝に記述された「一大国」の王都とされる、弥生時代の環濠遺跡です。
遺跡中央に台地があって、その頂上部に祭儀のための建物群があったようです。そこをポイントとしています。
以前に書きましたように → 筑前国一宮「筥崎宮」(1)九州王朝 その9
「浮嶽」から「原の辻遺跡 主祭殿」まで 314.96°(距離45.513km) 北西315°との誤差0.04°(約 32m)です。
「浮嶽(うきだけ)」は唐津市と糸島市の間にそびえる標高は 805m の山です。
頂上に「浮嶽神社上宮」が鎮座します。御祭神は「浮嶽大神」とのこと。
麓にある「浮嶽神社中宮」の境内に「久安寺(きわじ)跡」があります。久安寺は怡土七ヶ寺のひとつで、聖武天皇の勅願により、インドからの渡来僧「清賀上人(せいがしょうにん)」が建立したお寺です。
とりあえず、ラインをとってみると…
「原の辻遺跡 主祭殿」から「浮嶽神社上宮」まで 135.22°(距離 43.240km) 南東との誤差 +0.22°(約 166m)です。
これも甘いですが、有意範囲内としています。
ここまで、ラインから考えてみますと、「一大国」は、男岳の月読命と浮嶽の神様を祀っていたということになると思います。
次に、「女嶽神社(女岳)」から「安国寺」まで 180.05°(約 6.967km) 真南との誤差 +0.05°(約 6m)です。
「安国寺」は壱岐では最古のお寺とのこと。足利尊氏・直義が、夢窓礎石の勧めにより全国に建立を命じた安国寺のひとつとのこと。以前からあった海印寺を拡張したのだそうです。高麗版大般若経が盗難に遭ったことで知られているようです。

15km×20kmの範囲です


※特に断らない時は、1km×1kmの範囲です
「男嶽神社(男岳)」から「小蔵寺(おぐらじ)」まで 135.08°(距離 55.753km) 南東との誤差 +0.08°(約 78m)
「小蔵寺」も、聖武天皇の勅願により清賀上人が建立した「怡土七ヶ寺」のひとつです。
「白糸の滝」のすぐ近くなのですが、元禄の頃までは別の場所にあったようなので、参考程度かなぁ…
「夷巍寺(いきじ)」も、聖武天皇の勅願により清賀上人が建立した「怡土七ヶ寺」のひとつです。
現在は仁王門だけが残っています。本堂があった位置がわかりませんので、とりあえず仁王門までは…
「男嶽神社(男岳)」から「夷巍寺 仁王門」まで 135.11°(距離 52.191km) 南東との誤差 +0.11°(約 100m)
本堂の位置を想像すると、更に誤差が広がりそうですので、これも参考程度かなぁ…
最後の最後ですが、「浮嶽(標高805m)」のすぐ東隣の頂上は「女岳(標高748m)」でした。
下の画像は北側の姫島から見た景色なのですが…

基本的に男と女がセットになっていると思うのですが、付近に「男岳」という名前の山が見当たりません。これって、「浮嶽」が実は「男岳」ということだったのではないでしょうか?
というのは、単なる私の想像に過ぎないのですが…
(まだつづきます!)
「櫻井神社」は(その前身の「與土姫大明神」も)江戸時代の創建になので、古墳から考えた方がよいのでは?とのことです。
そう、櫻井神社は古墳の上にあるのです。lunaさんの記事があります → 櫻井神社 岩戸開き
うーん…古墳かぁ…伊勢ときれいに対比するつもりだったのですが、少し意味合いが違っちゃうかなぁ…
でも、「女嶽神社(女岳)」に夏至の太陽が沈む地点が周辺にもありますので、「女嶽神社(女岳)」の重要性を補完できると思います。
櫻井神社から南西方向に登る参道を200m程進むと「櫻井大神宮」があります。
社殿の背後が、3m位の高さの尾根になっていますが、そこから海が見えるはずです。

上の画像は、櫻井大神宮の地面から4m上空からの、夏至の日の入りです。すぐ後ろの尾根の上からでも、同じように見えるはずです。200mmの望遠レンズ相当になります。
「櫻井大神宮」の創建は寛永2年(1625年)、「與土姫大明神」よりも古いことになります。ここも lunaさんが詳しいです → 桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている
元々は、慶長15年(1610年)に豪雨があって、「與土姫大明神→櫻井神社」の場所に岩戸(古墳)が開いたのが始まりのようです。黒田家が隣の丘に「櫻井大神宮」を建て(1625年)、続けて寛永9年(1632年)に古墳の上に「與土姫大明神」の社を建てたという順番になります。與土姫大明神が櫻井神社と改称されたのは、明治2年のことだそうです。
櫻井大神宮は天照大御神(あまてらすおおみかみ)・豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀ります。伊勢神宮の内宮・下宮が祀る神様を勧請している訳です。
上の画像の300°のすぐ左に「男岳」があります。頂上のすぐ向こう側に「男嶽神社」が鎮座します。
「櫻井大神宮」から「男嶽神社(男岳)」まで 299.94°(距離 46.904km) 300°との誤差 -0.06°(約 49m)です。
当サイトでは、±0.25°までを有意としていますので、OKです。
男岳とは方位角の関係を結び、女岳とは太陽の運行との関係を結んでいる…
これは「若宮八幡神社」(佐賀県三養基郡みやき町)と屏山・馬見山との関係 → 「ひめちゃご」がつなぐライン群 その1
大阪の「住吉大社」と葛城山・二上山との関係 → 筑後国一宮「高良大社」 その31 松阪の櫛田神社(12)
と、類似すると思います。
「男嶽神社(男岳)」から「櫻井大神宮」へのラインを更に延長すると、山の頂にぶつかります。
「天ヶ岳(あまがたけ)」には二つのピークがあります。「女天ヶ岳(めてんがたけ):標高 261m」と「男天ヶ岳(おてんがたけ):標高 251m」 です。
ラインは「男天ヶ岳」の頂上三角点の南西15m程に到達します。標高は三角点と変わりません。

上の画像は「櫻井大神宮」から見た「男天ヶ岳」です。白い四角が到達点です。16mmの超広角レンズ相当になります。
ずっと南の糸島市役所からはこんなふうに見えます。

これは50mm標準レンズ相当です。
この白い四角から測定します。
「男天ヶ岳」頂上部から「男嶽神社(男岳)」まで 299.94°(距離 48.037km) 300°との誤差 -0.06°(約 50m)です。
そして、夏至の太陽は、やはり女岳に沈みます。

この「男天ヶ岳」から見た姿が元々なのかもしれません。
300°の位置に「男岳(すぐ裏に男嶽神社)」が見えて、夏至の太陽は「女岳(女嶽神社)」に沈む。
当然、太陽の祭祀は「天照大御神」を祀るものです。「女岳(女嶽神社)」に祈ります。
方位角のラインを使った祭祀は「男岳(男嶽神社)」に祈ります。
男岳は「月読命」が降臨した山です。「月読命」に祈ることになると思います。
男天ヶ岳から男岳への 300°のライン上には「櫻井大神宮」を置いて、「天照大御神」と「豊受大御神」を祀ります。
ここからも、夏至の日の入りによって「天照大御神」に、300°のラインに沿って「月読命」に祈ります。
ということは、「月読命」=「豊受大御神」ということになるのではないでしょうか…
と、整理してみたのですが、天ヶ岳の高い方のピーク「女天ヶ岳」からも、夏至の太陽は「女岳(女嶽神社)」に沈むのでした。

でも、「男岳」とは関係を結ばないようです。
前回書きました、七色さんの夢の前半「ふたつの山があって、ひとつには八雷神が祀られていた」というのは、私がここを調べていたときのことだったのですが、残念ながら天ヶ岳に何かが祀られていたという記録はないようです。どうなんでしょうね…
でも、「天ヶ岳」という名前は尋常ではないと思います。理由があると思います。

60km×40kmの範囲です
赤は方位角のライン、黄色は夏至の日没のラインを示します。

3600m×2700mの範囲です

3600m×2700mの範囲です
さて、次に、女岳頂上の女嶽神社から右に延びるのは、宗像大社辺津宮への真東のラインです。真東といっても 89.88°という、少し甘めの角度でした。

ところがこのラインは、方位角のラインではなかったのです。
辺津宮の西1300m程のところの「女嶽神社から見える地点」に登れば、当然壱岐の女嶽神社(女岳)が見えるのですが…
下の画像は今年の春分の日の入りです。

今年(2018年)の春分は、正確には 3月21日01時15分です。この画像より 17時間も前になります。
夏至や冬至は、1週間くらい同じ場所から日が昇ったり沈んだりするようですが、春分・秋分は、日の出入りの場所が一番激しく動きますので、もう一日前の画像をとっておきましょう。20日の日の入りの方が、正確な春分には近いはずです。

上の画像の 7時間後に正確な春分になるわけです。(太陽の軌道は左から右に移動しています)
これって、どう考えればいいのでしょう?正確な春分時点に日が沈むわけではないので、暦って、どう作るんだろう…
更に、今年の秋分の日を調べてみました。

今年(2018年)の秋分は、正確には 9月23日10時54分です。この画像より 7時間前になります。
これは近いですよね。前日の22日の日の入りよりはずっと近いです。(3月20日の日の入りにそっくりの画像ですね~)
でも、まあ、念の為に22日の画像を…

上の画像の17時間後に正確な秋分となります。(これまた春分の日3月21日の日の入りにそっくりの画像です。太陽の軌道は右から左に移動していますね。)
どうやら、正確な春分・秋分の太陽の軌道は、女岳と男岳の、ちょうど真ん中あたりを通るようです。
男岳か、女岳か、どちらを目指したのかはわかりませんでしたが、ここが二分(春分・秋分)の日の入りを祭祀した場所だという可能性があると思います。その延長線上に宗像大社辺津宮がある…

90km×60kmの範囲です
宗像大社辺津宮が、男岳・女岳に沈む太陽を祀るラインから、その位置を定めたのか…
すでに当サイトでは、辺津宮の位置を決めたと思われる、二本のラインを想定しています。
ひとつは、「四王寺山」から「辺津宮」まで 真北 359.99 ° → 筑後国一宮「高良大社」 その13
もうひとつは、「英彦山が見えるポイント」から「英彦山北岳」まで 南東 135.02°その延長線上に「辺津宮」 → 筑後国一宮「高良大社」 その3
といったものです。逆に辺津宮を基準として、二分の日が沈む場所を見出して、壱岐の男岳・女岳を聖なる山と定めた可能性もあります。
結局、よくわからないです。
最後に男岳(男嶽神社)の方位のラインを追加して、今回の記事を終えることにします。

90km×60kmの範囲です

15km×20kmの範囲です

1200m×1600kmの範囲です

1200m×1600kmの範囲です
「男嶽神社(男岳)」から「原の辻(はるのつじ)遺跡 主祭殿」まで 179.92°(距離 8.656km) 真南との誤差 -0.08°(約 12m)
原の辻遺跡は、魏志倭人伝に記述された「一大国」の王都とされる、弥生時代の環濠遺跡です。
遺跡中央に台地があって、その頂上部に祭儀のための建物群があったようです。そこをポイントとしています。
以前に書きましたように → 筑前国一宮「筥崎宮」(1)九州王朝 その9
「浮嶽」から「原の辻遺跡 主祭殿」まで 314.96°(距離45.513km) 北西315°との誤差0.04°(約 32m)です。
「浮嶽(うきだけ)」は唐津市と糸島市の間にそびえる標高は 805m の山です。
頂上に「浮嶽神社上宮」が鎮座します。御祭神は「浮嶽大神」とのこと。
麓にある「浮嶽神社中宮」の境内に「久安寺(きわじ)跡」があります。久安寺は怡土七ヶ寺のひとつで、聖武天皇の勅願により、インドからの渡来僧「清賀上人(せいがしょうにん)」が建立したお寺です。
とりあえず、ラインをとってみると…
「原の辻遺跡 主祭殿」から「浮嶽神社上宮」まで 135.22°(距離 43.240km) 南東との誤差 +0.22°(約 166m)です。
これも甘いですが、有意範囲内としています。
ここまで、ラインから考えてみますと、「一大国」は、男岳の月読命と浮嶽の神様を祀っていたということになると思います。
次に、「女嶽神社(女岳)」から「安国寺」まで 180.05°(約 6.967km) 真南との誤差 +0.05°(約 6m)です。
「安国寺」は壱岐では最古のお寺とのこと。足利尊氏・直義が、夢窓礎石の勧めにより全国に建立を命じた安国寺のひとつとのこと。以前からあった海印寺を拡張したのだそうです。高麗版大般若経が盗難に遭ったことで知られているようです。

15km×20kmの範囲です


※特に断らない時は、1km×1kmの範囲です
「男嶽神社(男岳)」から「小蔵寺(おぐらじ)」まで 135.08°(距離 55.753km) 南東との誤差 +0.08°(約 78m)
「小蔵寺」も、聖武天皇の勅願により清賀上人が建立した「怡土七ヶ寺」のひとつです。
「白糸の滝」のすぐ近くなのですが、元禄の頃までは別の場所にあったようなので、参考程度かなぁ…
「夷巍寺(いきじ)」も、聖武天皇の勅願により清賀上人が建立した「怡土七ヶ寺」のひとつです。
現在は仁王門だけが残っています。本堂があった位置がわかりませんので、とりあえず仁王門までは…
「男嶽神社(男岳)」から「夷巍寺 仁王門」まで 135.11°(距離 52.191km) 南東との誤差 +0.11°(約 100m)
本堂の位置を想像すると、更に誤差が広がりそうですので、これも参考程度かなぁ…
最後の最後ですが、「浮嶽(標高805m)」のすぐ東隣の頂上は「女岳(標高748m)」でした。
下の画像は北側の姫島から見た景色なのですが…

基本的に男と女がセットになっていると思うのですが、付近に「男岳」という名前の山が見当たりません。これって、「浮嶽」が実は「男岳」ということだったのではないでしょうか?
というのは、単なる私の想像に過ぎないのですが…
(まだつづきます!)
志摩の日の入り・伊勢の日の出 その1
福岡県糸島市に「鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)」があります。
御懐妊中の神功皇后が新羅に出兵する際に、出産を遅らせるため、二つの石を肌身に抱いて航海に出た。その石を祀る神社です。
境内にある「見晴らし台」が元宮の位置になるのだそうですが、lunaさんがその場所を「天文観測所」だと感じたことから、調査を始めました。lunaさんのその「感じ」が、とても大切なのです。
結果として、太陽を祭祀する場所であることは説明できなかったのですが、方位としてのラインを見つけることができました。
lunaさんが記事としてまとめてくださいました。 → 鎮懐石八幡宮3 夏至の日没が見える宮
今回の記事はその続きになるのですが、掲載していただいた画像が、申し訳なかったのですが、小さかったこともあって、当ブログとしても、おさらいしてみます。

90km×60kmの範囲です
女嶽神社(女岳) → 鎮懐石八幡宮旧社地 南東134.96°距離 50.221km 南東との誤差 -0.04°(約 35m)
鎮懐石八幡宮旧社地 → 宗像大社辺津宮 北東44.98°距離 50.180km 北東との誤差 -0.02°(約 18m)
女嶽神社(女岳) → 宗像大社辺津宮 東89.88°距離 70.874km 東との誤差 -0.12°(約 148m)
鎮懐石八幡宮旧社地 → 女嶽神社(女岳) は 北西 315.17°ですので、
頂角 89.81°のほぼ直角二等辺三角形になります。

方位角を見ると、起点は「女嶽神社(めんだけじんじゃ)」になるようです。「女岳(めんだけ)」の頂上部に鎮座します。

上は「女嶽神社(女岳頂上)」から南東方向の画像です。200mm望遠相当で、上端の目盛は1°刻みです。太陽や月がふたつ並ぶくらいの角度になります。

上は「女嶽神社(女岳頂上)」から東方向の画像です。同じく200mm望遠相当です。
真東との誤差が大きめですねぇ…孔大寺山・金山・城山は宗像四塚と呼ばれる山並みになります。
では、女岳にある女嶽神社とは、それほど重要なところなのでしょうか?

壱岐の最高峰は「岳ノ辻:標高 213m」、次いで「久美ノ尾辻:標高 175m」、第三位が「男岳(おんだけ):標高 168m」、そして第四位が「女岳(めんだけ):標高 149m」とのことです。
「女岳」は、すぐ北隣の「男岳」とセットで考えるのが良いようです。
この「男岳」が大変な山のようなのです。
頂上部に「男嶽神社(おんだけじんじゃ)」が鎮座します。
御祭神は「猿田彦大明神」・「句々廼馳(くくのち)命」・「野槌命(のづちのみこと)」とのことです(壱岐の自然と文化遺産研究保存会さんのホームページ「ようこそ 壱岐へ」による)。
「猿田彦神」は天孫降臨の時に、邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した神様
「句々廼馳(くくのち)命」はイザナギ・イザナミが生んだ木の神様
「野槌命(のづちのみこと)」もイザナギ・イザナミが生んだ野の神様
ということになるようです。
そして、「女岳」の「女嶽神社」は、猿田彦神の奥様である「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」を祀ります。
天の岩戸の前で踊った方ですね。「男嶽神社」と「女嶽神社」は、御夫婦でワンセットになっているようなのです。
しかし、「男岳」には、それ以前に大変なお話があるようなのです。
「月読命」が最初に降臨された場所だと言われているのです。
イザナギが禊をした時に生まれた三貴神のひとりですね(あとはアマテラスとスサノオ)。
明治時代に社殿ができるまでは、男岳は禁足地だったそうです。
keitokuchinさんの記事がとても魅力的なので、こちらを御覧ください → 正見行脚 壱岐島にて(27)~男岳山の磐座(月読神社現初地)
男岳山頂に降臨した月読命は、月読神社で祀られることになったようですが、それが芦辺町国分にある「月讀神社」なのか、最初に月読神社として創立されたという芦辺町箱崎の「箱崎八幡神社」なのか、わかっていないようです。後者の説が有力なようですが、芦辺町国分の「月讀神社」には「月延石(安産石)」が祀られています。
これが神功皇后の鎮懐石なのです。
「壱岐の自然と文化遺産研究保存会」さんのホームページ「ようこそ 壱岐へ」によると、筑紫にあったこの石に落雷して三つに割れた。一つは京都の月読神社に、一つは福岡県糸島市の鎮懐石八幡神社に、一つは壱岐の月読神社に祀られたとのことです。
壱岐に関しては、「壱岐の自然と文化遺産研究保存会」さんのホームページ「ようこそ 壱岐へ」が最も充実しています。 → 壱岐の月読神社
ここで、神功皇后の鎮懐石について、鎮懐石八幡神社と「月読」とのつながりがあったわけです。
しかし、それは月読神社の原初地である男岳とのつながりです。
女岳と男岳がセットであると考えれば、男岳との関係を認めればよいのかもしれませんが、どうなのでしょうか?
女岳にある女嶽神社は、重要なのでしょうか?
ちょうど、その頃、七色さんに、二つの夢が降りました。
隣り合わせのふたつの山があって、ひとつには八雷神を祀る神社、もうひとつの頂上にはそこに至る登山道があったそうです。八雷神は長い間、二人の人間を待っているのですが、今回ここを目指した二人は待っていた人ではなかった…でも、惜しい人でしたので、登山道のある山の頂で、雷をゴロゴロ鳴らしてそのことを伝えて去っていった…というものでした。
もうひとつは、隣り合った高い山と低い山があって、高い山には人々が登ってお祈りをしているのですが、低い山は巫女だけが登ることを許されて、祈りを捧げているという夢だったそうです。
後半の夢を、壱岐の男岳・女岳に当てはめると…山に降臨した月読命を祀る場所は、巫女のみが立ち入ることを許されるところで、後に女岳と呼ばれた…それに対応する形で、降臨した山を男岳と呼ぶことになった…ということになるのかもしれません。
そもそもが鎮懐石神社旧座地が天文観測所だったのかを調べるお話だったのですが、「女岳」について、天体の運行に関するものがあるのでしょうか? といって、私が調べることができるのは二至二分の日の出入りしかないのですが…
ここを調べるとしたら、夏至の日没になると目星をつけました。糸島半島のどこかで見られるはずです。

上は今年の夏至の日の入りです。200mm望遠相当の画像になります。
撮影地点はどこかというと…

90km×60kmの範囲です

45km×35kmの範囲です

2000m×1500mの範囲です
撮影地点は、「女岳」と福岡県糸島市志摩桜井にある「櫻井神社」をつなぐライン上にありました。
「櫻井神社」からは、山の尾根に阻まれて、海を見ることはできません。「女岳」を見ることができるのは、その尾根の稜線からです。つまり、夏至の日に、太陽が女岳に沈む場所を特定して、その延長線上に「櫻井神社」の場所を定めた可能性があるのです。
「櫻井神社」は、かつては「與土姫大明神」であって、「大綿津見の神」を祀っていたとのことです。lunaさんのブログに詳しいです。 → 桜井神社(1)嵐の中で岩戸が開いた
さて、lunaさんのブログ「ひもろぎ逍遥」に「ウーナ」という不思議なシリーズが連載中です。2018年3月25日の記事に、七つの珠を受け取る場面があります。 → ウーナ28 七つの珠7 ワダツミの神
その、七つの珠を受け取る浜が、このライン上だと思うのですが、どうでしょうか?

海の向こうからの攻撃が迫っていて、それを防ぐために、七つの珠を七つの場所に納めて結界をつくるということです。
私はインスピレーション的なものは、何も持っていませんので、何とも言えないのですが、頭で理解することはできるのではないかと思います。また、努力しようと思います。そもそもが聖地を扱うブログですので、当然のことです。
ただ、ひとつ危惧するのは、外からの脅威に備えて、中を固める(意識を統一する)といった時に、往々としてそれを利用しようとする人々が現れることです。一神教の出現を嫌って中断したウーナのシリーズですので、敏感になれると思いますが、そこのところは皆で注意していかないと…と思ったことでした。
まあ、これも、その浜の場所や不思議な雲の方向が合っていればのお話なんですけど…
(つづきます!)
御懐妊中の神功皇后が新羅に出兵する際に、出産を遅らせるため、二つの石を肌身に抱いて航海に出た。その石を祀る神社です。
境内にある「見晴らし台」が元宮の位置になるのだそうですが、lunaさんがその場所を「天文観測所」だと感じたことから、調査を始めました。lunaさんのその「感じ」が、とても大切なのです。
結果として、太陽を祭祀する場所であることは説明できなかったのですが、方位としてのラインを見つけることができました。
lunaさんが記事としてまとめてくださいました。 → 鎮懐石八幡宮3 夏至の日没が見える宮
今回の記事はその続きになるのですが、掲載していただいた画像が、申し訳なかったのですが、小さかったこともあって、当ブログとしても、おさらいしてみます。

90km×60kmの範囲です
女嶽神社(女岳) → 鎮懐石八幡宮旧社地 南東134.96°距離 50.221km 南東との誤差 -0.04°(約 35m)
鎮懐石八幡宮旧社地 → 宗像大社辺津宮 北東44.98°距離 50.180km 北東との誤差 -0.02°(約 18m)
女嶽神社(女岳) → 宗像大社辺津宮 東89.88°距離 70.874km 東との誤差 -0.12°(約 148m)
鎮懐石八幡宮旧社地 → 女嶽神社(女岳) は 北西 315.17°ですので、
頂角 89.81°のほぼ直角二等辺三角形になります。

方位角を見ると、起点は「女嶽神社(めんだけじんじゃ)」になるようです。「女岳(めんだけ)」の頂上部に鎮座します。

上は「女嶽神社(女岳頂上)」から南東方向の画像です。200mm望遠相当で、上端の目盛は1°刻みです。太陽や月がふたつ並ぶくらいの角度になります。

上は「女嶽神社(女岳頂上)」から東方向の画像です。同じく200mm望遠相当です。
真東との誤差が大きめですねぇ…孔大寺山・金山・城山は宗像四塚と呼ばれる山並みになります。
では、女岳にある女嶽神社とは、それほど重要なところなのでしょうか?

壱岐の最高峰は「岳ノ辻:標高 213m」、次いで「久美ノ尾辻:標高 175m」、第三位が「男岳(おんだけ):標高 168m」、そして第四位が「女岳(めんだけ):標高 149m」とのことです。
「女岳」は、すぐ北隣の「男岳」とセットで考えるのが良いようです。
この「男岳」が大変な山のようなのです。
頂上部に「男嶽神社(おんだけじんじゃ)」が鎮座します。
御祭神は「猿田彦大明神」・「句々廼馳(くくのち)命」・「野槌命(のづちのみこと)」とのことです(壱岐の自然と文化遺産研究保存会さんのホームページ「ようこそ 壱岐へ」による)。
「猿田彦神」は天孫降臨の時に、邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した神様
「句々廼馳(くくのち)命」はイザナギ・イザナミが生んだ木の神様
「野槌命(のづちのみこと)」もイザナギ・イザナミが生んだ野の神様
ということになるようです。
そして、「女岳」の「女嶽神社」は、猿田彦神の奥様である「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」を祀ります。
天の岩戸の前で踊った方ですね。「男嶽神社」と「女嶽神社」は、御夫婦でワンセットになっているようなのです。
しかし、「男岳」には、それ以前に大変なお話があるようなのです。
「月読命」が最初に降臨された場所だと言われているのです。
イザナギが禊をした時に生まれた三貴神のひとりですね(あとはアマテラスとスサノオ)。
明治時代に社殿ができるまでは、男岳は禁足地だったそうです。
keitokuchinさんの記事がとても魅力的なので、こちらを御覧ください → 正見行脚 壱岐島にて(27)~男岳山の磐座(月読神社現初地)
男岳山頂に降臨した月読命は、月読神社で祀られることになったようですが、それが芦辺町国分にある「月讀神社」なのか、最初に月読神社として創立されたという芦辺町箱崎の「箱崎八幡神社」なのか、わかっていないようです。後者の説が有力なようですが、芦辺町国分の「月讀神社」には「月延石(安産石)」が祀られています。
これが神功皇后の鎮懐石なのです。
「壱岐の自然と文化遺産研究保存会」さんのホームページ「ようこそ 壱岐へ」によると、筑紫にあったこの石に落雷して三つに割れた。一つは京都の月読神社に、一つは福岡県糸島市の鎮懐石八幡神社に、一つは壱岐の月読神社に祀られたとのことです。
壱岐に関しては、「壱岐の自然と文化遺産研究保存会」さんのホームページ「ようこそ 壱岐へ」が最も充実しています。 → 壱岐の月読神社
ここで、神功皇后の鎮懐石について、鎮懐石八幡神社と「月読」とのつながりがあったわけです。
しかし、それは月読神社の原初地である男岳とのつながりです。
女岳と男岳がセットであると考えれば、男岳との関係を認めればよいのかもしれませんが、どうなのでしょうか?
女岳にある女嶽神社は、重要なのでしょうか?
ちょうど、その頃、七色さんに、二つの夢が降りました。
隣り合わせのふたつの山があって、ひとつには八雷神を祀る神社、もうひとつの頂上にはそこに至る登山道があったそうです。八雷神は長い間、二人の人間を待っているのですが、今回ここを目指した二人は待っていた人ではなかった…でも、惜しい人でしたので、登山道のある山の頂で、雷をゴロゴロ鳴らしてそのことを伝えて去っていった…というものでした。
もうひとつは、隣り合った高い山と低い山があって、高い山には人々が登ってお祈りをしているのですが、低い山は巫女だけが登ることを許されて、祈りを捧げているという夢だったそうです。
後半の夢を、壱岐の男岳・女岳に当てはめると…山に降臨した月読命を祀る場所は、巫女のみが立ち入ることを許されるところで、後に女岳と呼ばれた…それに対応する形で、降臨した山を男岳と呼ぶことになった…ということになるのかもしれません。
そもそもが鎮懐石神社旧座地が天文観測所だったのかを調べるお話だったのですが、「女岳」について、天体の運行に関するものがあるのでしょうか? といって、私が調べることができるのは二至二分の日の出入りしかないのですが…
ここを調べるとしたら、夏至の日没になると目星をつけました。糸島半島のどこかで見られるはずです。

上は今年の夏至の日の入りです。200mm望遠相当の画像になります。
撮影地点はどこかというと…

90km×60kmの範囲です

45km×35kmの範囲です

2000m×1500mの範囲です
撮影地点は、「女岳」と福岡県糸島市志摩桜井にある「櫻井神社」をつなぐライン上にありました。
「櫻井神社」からは、山の尾根に阻まれて、海を見ることはできません。「女岳」を見ることができるのは、その尾根の稜線からです。つまり、夏至の日に、太陽が女岳に沈む場所を特定して、その延長線上に「櫻井神社」の場所を定めた可能性があるのです。
「櫻井神社」は、かつては「與土姫大明神」であって、「大綿津見の神」を祀っていたとのことです。lunaさんのブログに詳しいです。 → 桜井神社(1)嵐の中で岩戸が開いた
さて、lunaさんのブログ「ひもろぎ逍遥」に「ウーナ」という不思議なシリーズが連載中です。2018年3月25日の記事に、七つの珠を受け取る場面があります。 → ウーナ28 七つの珠7 ワダツミの神
その、七つの珠を受け取る浜が、このライン上だと思うのですが、どうでしょうか?

海の向こうからの攻撃が迫っていて、それを防ぐために、七つの珠を七つの場所に納めて結界をつくるということです。
私はインスピレーション的なものは、何も持っていませんので、何とも言えないのですが、頭で理解することはできるのではないかと思います。また、努力しようと思います。そもそもが聖地を扱うブログですので、当然のことです。
ただ、ひとつ危惧するのは、外からの脅威に備えて、中を固める(意識を統一する)といった時に、往々としてそれを利用しようとする人々が現れることです。一神教の出現を嫌って中断したウーナのシリーズですので、敏感になれると思いますが、そこのところは皆で注意していかないと…と思ったことでした。
まあ、これも、その浜の場所や不思議な雲の方向が合っていればのお話なんですけど…
(つづきます!)